昭和57年6月6日 朝の御理解

御理解第44節
狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。

 御理念に基づいて、えー、信心のけいこをさせて頂いておると、だんだん、えー、お詫びをするということがなくなってくる。お詫びの生活、というふうに、最近言われますね。
 昨日は、んー、研修の時にお話ししたことでしたけれど、昨日、ちょうどお道のある新聞がまいりました中に、見出しに「反省に反省をして」というような、大きな見出しで書いてありましたから、それを読んでもらいました。内容はたいしたことなかったですけれども、本当に、以前は、とにかく反省に反省、もう、ずいぶんそういう言葉も使われましたですけれども、段々御理念に基づいていっとりますとね、もう、お礼を申し上げること、お願いをすることは限りがないですけれども、お詫びを、例えばいたしましたり、言うならば反省をするといったようなことはなくなってくるというふうに、昨日はまあ話したことです。
 これは大変、えー、まあそこだけをとらえると、合楽の信心は、そのお詫びも反省もないだろうかと、いうふうに言われますけども、御理念に基づいてまいりますと段々、そういう、まあ言うならば、感じが強うなってまいりますね。そりゃなるほど反省して、改まっていけばいいですよ。けども、反省に反省ばっかりを、何遍繰り返したところで、改まりもできずに、反省反省ばかり言うておると、もう、それこそ、もう自分はもうダメだとかつまらんとかと言ったから、ところで、落ち込んでね、おかげの受けられない世界に入るということです。
 なるほど、詫びれば許してやりたいのが親心と仰せられるから、まあ、本当に、素直にすきっとこう、お詫びができるというような、まあ、信心も頂いていかなきゃなりませんが、まっ例えて申しますと、昨日の御理解の中にね、えー、商売人が、ね、売り場買い場を大切にせよ、十銭の物なら八銭で売れというふうな、御教えについて、の、御理解でしたがね。よくよく考えてみますとね、私は、長年商売をしてきたけれども、確かに、どうぞ大きなおかげを頂きたい、立派な商売人になりたい、そして、大きな御用でもどんどんさしてもらえるようなおかげを頂きたいという願いは持ってましたけれどもね、その、教祖の御教えに忠実ではなかったんです。人が十銭で売る物は、十一銭で売ることが、商売が上手のように思うておったしね、ええ。
 もうそれこそ、まあ、駆け引きと言や、まっいいですけども、まっ言うならば、まっ嘘で固めたような商売、まっ思、思うんです。昔の酒屋さんっていうのはもう、その調合が上手なからなでけませんでした。ですから、もうそれには、もう、とにかくどんなに腐った酒でも、そんかわり良くなすような手立ても知ってました。覚えました。ね、(?)安ーくて高く売るという。いかにも、目先目先おかげを頂いてきたんですけれども、なそれで成就しなかったということ。だから私がもし、なら、あの商売人時代にです、教祖の御教えに忠実であったら、今日の合楽は開けてないです。ね、そうでしょうが。
 私がね、なら教祖の御教えのその、商売に対するところの御教えを本当に忠実にさせて頂いておったら、もちろん商売は大繁盛して、それこそデパートのようなおかげを頂いたかもわかりません。ね、御教えに忠実なれば。ところが、御教えに一つも忠実じゃなかったんです。だから、結局行き詰まってしまった、ということになるんです。だから、今日合楽開けたんですからね。そういうことは一つの過程であって、お詫びをするということじゃないですね。本当に、まあそこに、真剣にお詫びをするなら、もういっちょがしませんと言ったようなお詫びならいいです。ただすんません、すんませんばっかりで改まりもでけん、反省に反省と言うてです、一日を振り返って反省して、あれもいけじゃったこれもいけじゃったといったような、いけないことばーっかりになってしまう。それではおかげの頂けれる場がないです。ね。
 そこで私は思うんですけど、人間は万物の霊長なればとこう仰せられるように、霊長としてのいよいよ値打ちを作ることに、精進したらいいんです。ね、死したる後神にまつられる、まっ神にまつられるとかなるとかということは別をしましてもです、段々そういう信心を進めていきよると、我ながらわが心が拝めるようになる。間違いなく、神にま、いわば、この世で神に、わが心の神を拝めれるようになり、もちろん、それがそのまま、あの世に行っても神となるということはそういうことだというふうに思うんですけれども。
 昨日、あそこの、合楽の田中さんが、日参してみえます。ここにお届けをされますのに、「親先生私はもう、いよいよ分からせて頂いた」と言うんです。な、どう何を分かったんですかっち言ったら、もういよいよ豊かな大きな心にならにゃ馬鹿らしいです、いよいよ美しい心にならなければ馬鹿らしいです、小さいことが気になって心配になって、ね、人の足元ばかりが見えて、ね、言うならばちょっとしたことに腹が立って、もうこんな馬鹿らしいことはありません、もういよいよ豊かな大きな心にならなければ、美しゅう限りなくなることの精進をしなければ、馬鹿らしいということに気が付いた。いやーそりゃあんた大変なこと気がついたねと言うて、まあ申しましたことでしたけれども。
 信心はね、まずそこからです始まりは。自分のような汚い、ずるい心、こすい心、ね、もうとにかく人の足元ばっかりが見える、ちょっとしたことが腹が立って堪えん、ねえ。というようなことでは、一生、こんなに馬鹿らしいことはないということに気がつくということなんです。ためには、大きくなるための手立てがそこにあるのですし、また、限りなく美しゅうならせて頂くための教えが、そこには、合楽理念に基づくと、限りなく、しかも、微に入り細にわたって説かれてあるんです。ね、そこに気がつくことですよ。まずこれが根本です。いわゆる、神になる手立てというのはそうだと思うです。
 こげな汚れた心を持っとっちゃ馬鹿らしかと、こんなに小さい心じゃもういよいよ馬鹿らしか。もうたったこのくらいのことが心配になる、たったこのくらいのことが腹ん立つ、人の非ばかりが見える、ね、いよいよ、豊かじゃない自分、ね、限りない美しゅう、言うなら汚い自分、というところからです、ね、その汚い自分にただ、お詫びとかお礼、あのー、反省とかというのじゃなくてです。これでは馬鹿らしいという気になるところから、んなら、豊かに大きくなるためには、限りなく美しゅうなるためにはという精進があるんです。
 ( ? )、まず、皆さんどうでしょうか。どうぞ大きなおかげを頂きたい、ね、おかげを頂きたいおかげを頂きたい、言うなら、目先目先のおかげにこだわっておる。だから、もう、そういうおかげを頂きたいならば、なら、豊かな心になること、まあ、とにかくこんな貧しい心ではもう馬鹿らしい、せっかく信心の教えを頂いておって、こんな汚い心ではもう、本当に、もう、(?)こげな損なことはないということをね、まず、気づかせて頂いて、ね、そこから、なら、限りなく美しゅうなる、限りなく豊かに大きゅうならせて頂こうという精進。その精進の手立てが、御理念によると、ね、だんだん説いてありますから。
 だんだん、ね、お詫びに打ち込まんで済む、反省から反省なんて言ったようなことではない、ね、これからの信心です、ね。まっ汚い心、まっ小さい心、それに気づいた。だから、なら大きくなるための信心、これからの信心を、目指していけば、いつの間にか、我情が取れ我欲が取れる。ね、そこの、これも合楽の久保山さんじゃないですけれども、ただただ、ね、成り行きを尊び大切にさせて頂くということを、日々の願いとして、おかげを頂いておりましたら、5年経ち6年経ち7年8年と経っていくうちに、いつの間にか我情が取れておる自分、我欲が取れておる自分に気がつくと言うておられます。確かにそうです。
 ね、ためにはまずね、汚い心やら小さい心では馬鹿らしい、そんなら美しゅうもなろう、豊かにも大きくもなろう、という心が起こってまいります。んなら、手立てはというと、合楽に参ってさえくれば、その手立てが説かれるのですから、言うなら、けいこの楽しみ喜びも分からせて頂きながら、ね、いつの間にか霊長としての値打ちがいよいよ高められてくることでしょう。ね、はあ、昔の自分であったら、ね、このくらいの、このことがあったら、そうに情けない思いをしたり、腹が立ったりしたことであろうけれども、だんだんおかげを頂いて、全然問題が問題でなくなってくるように、心が豊かに大きくなっていっておるということをです。
 自分が汚い心であると人までが汚いように見えてくる。ね、その、なら、それが皆あの人も良い人、この人も良い人というふうに、まっ人の場合でもです、な事柄でも、一切神様の、えー、ご神願として、だんだん頂けてくるようになる。ね、そこに、我ながらわが心が拝めれる。本当にいつの間に自分の心がこんなに豊かに大きくなってきただろうかという、ね、わが心をいよいよ拝ませて頂けるような、心の状態が開けてくる。ね。
 だから結局ね、もうこげな損なことはない。こげな馬鹿らしいことはないということを、自分の心に一つ見極めがまずつけにゃいかんです。はあ、こげなん小さい心では、こんな汚いずるい心では、もう一生涯が馬鹿らしい。一生涯こんな汚い心持ち続けていかなきゃならんといったようなことであっては、いよいよいけないと気づくことです、まず第一に。ね、そしてその、ならずるい心が正しい心に、ね、狭い心が広い豊かな心に、汚い心がいよいよ限りない美しい心にならせて頂こうと発心する。ね、そこから、言うなら、綺麗にもなる豊かにもなれる、大きな心にもなれる手立てを、御理念に基づかせてもらうということになって、初めて、そういう信心修行させてもろうて、死したる後神にまつられる、ということを楽しめる信心が生まれてくると思うですよね、どうぞ。



入力者:大坪ふく代